論文等

横河コレクション雑感

著者: 今井 敦(文化庁美術学芸課)

出版者: 日本陶磁協会

掲載誌,書籍: 陶説 第743号

2015年 2月 1日 公開

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2020-10-06

 東京国立博物館の東洋館の展示室をしばしば訪れる方ならば、中国陶磁の展示品の多くのキャプションに「横河民輔氏寄贈」と記されていることをご存じであろう。平成二十六年度は横河民輔博士(一八六四~一九四五)の生誕百五十年にあたり、これを記念して東京国立博物館では横河コレクションをテーマにしたいくつかの特集陳列が企画されている。現在は「横河コレクション―甌香譜の世界」を開催中である(四月五日まで)。
 筆者は東京国立博物館で中国陶磁の担当者として二十余年にわたって横河コレクションに接してきた。それでも横河コレクションの特色を一言で言い表すのは困難であると言わなければならない。一応、一面的な好尚にとらわれることなく、体系的、網羅的、そして学究的に収集されたコレクションと言ってはみるものの、これだけでは横河コレクションの真の価値は伝わらない。
 横河コレクションには、コレクター横河民輔による「色づけ」がなされていない。博物館への寄贈という行為に端的に現れているが、収集の方向性という側面でも横河博士は自らのコレクションを公のものと捉えており、一個人の趣味や美意識の発露とは考えていなかったようである。この意味で、たとえば、コレクション自体が安宅英一氏(一九〇一~九四)の眼による作品ともいえる安宅コレクションとはかなり性格を異にしている。
 横河民輔博士は元治元年(一八六四)九月に現在の兵庫県明石市に生まれた。明治二十三年(一八九〇)に帝国大学工科を卒業とともに当時の三井組に入社、のちに独立して横河工務所を開き、建築家として活躍された。大正四年(一九一五)に工学博士となり、のち建築協会、建築資料協会の会長を歴任された。博士が設計を手掛けた代表的な建築物に、三井銀行、帝国劇場、銀行集会所、三越(東京、大阪)がある。また、大正七年(一九一八)に横河橋梁製作所、同九年(一九二〇)に横河電機製作所を興し、実業家としても手腕をふるわれた。
 横河博士が中国陶磁に関心をもち、蒐集を本格的に始めたのは大正三年(一九一四)のこととされる。二十世紀初頭は、一九〇四年に始まる汴洛鉄道の工事や、鉅鹿遺跡の発見によって、唐三彩や磁州窯など、それまで知られていなかった出土陶磁器が続々と古美術市場にあらわれ、また清朝末期の混乱によって、数多くの明・清時代の官窯器が市場に流出したことから、世界的に中国陶磁への関心が高まっていた。わが国でも、茶の湯における分類、評価にとらわれず、科学的見地にたって陶磁器を鑑賞、研究しようとする機運が興り、大河内正敏氏(一八七八~一九五二)、奥田誠一氏(一八八三~一九五五)を中心として陶磁器研究会が発足し、のちの彩壺会の設立につながってゆく。
 鑑賞における科学性を標榜した彩壺会の中にあっても、横河博士の蒐集の特色は際立っていた。白磁鳳首瓶(重要文化財、図*)、三彩貼花龍耳瓶(重要文化財、図*)のような世界的な名品も含まれているが、名品主義に偏すること無く、彩陶から清時代の官窯磁器まで、中国陶磁の壮大な歴史の流れが、作品を通して辿れるように集められているのである。すなわち、資料的な作品をも視野に入れ、中国陶磁史のパースペクティブをつかもうとする科学的な姿勢に裏打ちされている点に大きな特色があり、当時の研究水準では産地や製作時期が明確でなかった作品も収集の対象に加えられている。
 博物館に寄贈されたのは、実は横河博士の収集品の半数にも満たない。御寄贈のお申し出を受けてコレクションの選定にあたったのは、近代的な陶磁研究の草分けの奥田誠一氏、そして小山冨士夫氏(一九〇〇~七五)であったが、その条件はただ一つ「君がいいと思うものを選びたまえ」であったという。また、昭和七年(一九三二)九月十六日に中国陶磁約六百点の御寄贈を受け、その年の十月に博士の御恩にお応えするために東京帝室博物館(当時)の表慶館において「支那古陶磁特別展覧会」すなわち最初の横河コレクション展が開催されたが、博士は展覧会の招待日の前夜に小山冨士夫氏とともに関西方面に旅行に向かい、開会式の場に博士の姿はなかったという。このように、寡黙で奥ゆかしい性格という印象が強い横河博士であるが、先に触れた彩壺会における博士の講演録である「支那青瓷及其外国関係に就て」(彩壺会、一九二三)には中国陶磁研究に対する想いが熱っぽく語られており、陶磁史研究に対する博士の真摯な姿勢を垣間見ることができる。
 博士は第一回の御寄贈ののちも、昭和十八年(一九四三)まで、合計七回にわたって寄贈を続けられた。自身の楽しみのためという以上に、寄贈を目的に収集を続けられたといってもよく、その数は合計で千百点余に及ぶ。そして、終戦間近の昭和二十年(一九四五)七月に、小田原の別荘にて天寿を全うされたのである。そう、横河コレクションは永遠に未完のコレクションなのだ。博士がもし戦後も生き長らえたならば、市場の動向と研究の進展に応じて、コレクションはさらに成長を続けたであろうことは疑いない。
 そして、横河博士による「色づけ」、すなわち美意識に基づく取捨選択がなされていないがゆえに、横河コレクションは「人を試し、人を育てる」コレクションでもある。横河コレクションの豪華図録『甌香譜』(工政会出版部、一九三一)は、二十六歳にして編集の一切を託された青山二郎氏(一九〇一~七九)の横河コレクションに対する答案であり、小山冨士夫氏による一連の研究業績も、横河コレクションを咀嚼した成果の一部といえるだろう。昭和二十八年(一九五三)に若き日の林屋晴三氏(一九二八~)が担当して東京国立博物館本館で開催された「東洋古陶磁 横河民輔氏寄贈」、昭和五十七年(一九八二)に刊行された長谷部楽爾編『中国古陶磁―東京国立博物館・横河コレクション』(横河電機製作所)、平成十年(一九九八)に東洋館開館三十周年記念事業の一環として東洋館で開催され、筆者が担当した「特集陳列 横河コレクションの中国陶磁」、平成二十四年(二〇一二)の九州国立博物館における「中国陶磁名品展 横河民輔コレクション」では選定された作品が少しずつ異なっている。いずれも、それぞれの時代における学界の研究水準と、担当者の中国陶磁史理解を反映していることはいうまでもない。
 今なお横河コレクションは、本号に原稿を寄せている東京国立博物館の三笠景子氏ら若い研究者の大きな糧となっており、今後も中国における発掘調査をはじめとする新たな事実の発見と研究の進展により、さらなる豊かな実りをもたらすに違いない。また、われわれはそうしてゆかなければならない。