論文等

青磁と日本

著者: 今井 敦(文化庁美術学芸課)

出版者: 小学館

掲載誌,書籍: 日本美術全集 第6巻 テーマ巻①東アジアのなかの日本美術

2015年 3月 2日 公開

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2020-10-05

 「チャイナ」の語が陶磁器そのものを意味することが示すように、陶磁器は中国を代表する工芸品である。中国陶磁の輸出は唐時代以来の長い歴史をもっており、世界各地に伝来し、また遺跡から出土する中国陶磁は世界規模の「陶磁の道」の存在を雄弁に物語っている。
 一口に中国陶磁といってもその歴史は長く、また広大な国土に多数の窯が存在することから、その様相はきわめて変化に富んでいる。したがって、世界の各地が受容した中国陶磁はけっして一様ではない。それはそれぞれの地域の地理的環境や国際交流の歴史、また生活様式や美意識の違いを反映している。
 西アジアに向けて輸出された中国陶磁を特徴づけるのは、何といっても元、明時代に作られた青花磁器の一群であろう。これに対し、ヨーロッパ向けに輸出され、愛好された中国陶磁といえば、十六世紀以降オランダ東インド会社などの手によって大量にもたらされた明、清時代の磁器である。一方、インドネシアをはじめとする東南アジア地域には広東地方で焼かれた青磁や白磁などが数多く運ばれている。朝鮮半島には北宋時代の優品、とくに定窯や耀州窯などの華北地方産の製品がもたらされていることが特徴として挙げられる。
 それでは、日本において受容され、愛好された中国陶磁を代表するものは何であろうか。量の多さと質の高さ、そして日本の文化に対して及ぼした影響の大きさの点でそれは青磁、それも浙江省で歴代焼かれた青磁であるということができる。
 玉にも喩えられる宋時代の青磁は、当然のことながら一朝一夕に完成したものではない。それどころか、宋時代までの中国陶磁の歴史は、青磁の発達を軸に展開したといっても過言ではないのである。
 東アジア最古の釉薬は灰釉である。窯の中で土器を焼成する際に燃料の灰が降りかかるとガラス化し、自然釉を生じる。この現象に着目して、草木の灰を溶いて器面に塗り、人工的に釉薬を施すことが商(殷)時代前期、今からおよそ三千五百年前に始まった。この灰釉はむらがあり、鈍い褐色を帯びていて美しいとは言い難いが、基本的な成分や生成の原理の点で青磁と変わるところがない。すなわち、原料の配合や焼成法に息の長い改良を重ねて完成されたのが青磁なのである。
 灰釉が安定した技術として確立するまでには長い年月を要した。後漢時代になると、素地が堅く焼き締まり、釉薬がむらなくなめらかに溶け掛かった「瓷器」と呼ばれる水準に到達した。これに続く三国から南朝時代にかけては、浙江省を中心とする中国南部で「古越磁」と呼ばれる青磁が墳墓の副葬品としてさかんに作られた。
 中国の陶磁器が貿易と呼べる規模で継続的に日本に運ばれるようになったのは、唐時代後期、わが国では平安時代初頭の八世紀末のことである。この時期に日本にもたらされた中国陶磁の中では、越窯の青磁が多数を占めていた。越窯は現在の浙江省北部に位置し、後漢時代より青磁生産の中心にあったが、唐時代後期から五代にかけて著しい発展をみせた。生産規模の拡大ばかりでなく、この頃になると詩文にその美しさを称えられるようになる。名高い「秘色青磁」は越窯青磁の頂点に位置するものである。
 福岡の鴻臚館跡からは大量の越窯青磁が発見されている。遣唐使による公的な使節の往来が行われなくなると、鴻臚館は民間貿易の拠点へとその性格を変え、対外貿易の窓口として繁栄した。『源氏物語』や『宇津保物語』には「秘色」に由来する「ひそく」の語が見られ、平安貴族の間で舶来の青磁が珍重されていたさまが窺える。
 その越窯は北宋時代に入ると衰退してしまう。平安時代後期に輸入された中国陶磁の主体は白磁である。そして十二世紀後半になると再び大量の青磁が舶載されるようになる。その頃中国では浙江省西南部に位置する龍泉窯が興隆し、青磁生産の主導的な地位を確立していた。
 わが国で砧青磁と呼ばれる、粉青色の釉薬がなめらかに厚く掛かった美しい青磁は、南宋時代中頃に龍泉窯で完成された。日本に運ばれた龍泉窯青磁は質、量ともに充実している。寺院に大花瓶や香炉が伝世している例は多く、政権の所在地である鎌倉では夥しい量の青磁の破片が出土している。
 当時の貿易のありさまは、一九七六年に引き上げが始まった新安海底遺物によって窺い知ることができる。これは一三二三年頃に中国の寧波から日本に向けて航行中に韓国全羅南道新安郡の沖合で沈没した貿易船の積み荷であり、二万点に及ぶ中国陶磁が引き上げられ、その多くが龍泉窯青磁であったのである。元時代の龍泉窯では、砧青磁のほかに、彫り文様が加えられ、緑色の釉薬に覆われた新しいタイプの青磁が登場した。日本ではこれを天龍寺青磁と呼んでいる。また釉下に鉄斑文を散らしたいわゆる飛青磁(図*)もこの時代に焼かれたものである。
 さて、中国の陶磁史は元時代後期を境にその様相が一変すると言われる。江西省の景徳鎮窯において青花磁器が大きな発展を遂げたことを契機として、陶磁器製作の主たる関心は釉色と器形の美しさから筆彩による文様装飾へと移ってしまう。明時代には景徳鎮に御器廠すなわち宮中の御用品を焼造する官窯が置かれ、以後中国における陶磁生産の中心地としての独占的な地位を築くのである。一方、龍泉窯は明時代に入ると次第に衰退してゆく。室町時代にも引き続きもたらされているが、量は減少し、また釉色は濁り、作調の衰えは隠せない。
 それでは、室町時代の日本では中国の青磁は顧みられなくなったのかというと決してそのようなことはない。それどころか、現代まで続く価値観はこの時期に確立されているのである。
 室町将軍家を頂点とする武家や僧侶は、「唐物」と呼ばれる中国の絵画や工芸品を書院と呼ばれる建築の中に飾った。室町時代以前に日本にもたらされた中国の美術工芸品の中から特に優れたものを選び出し、これを鑑賞する文化が花開いたのである。『君台観左右帳記』は、足利将軍家に仕える阿弥衆が編纂した伝書で、多くの「唐物」を挙げてその分類、評価、用法などが詳述されており、当時の唐物鑑賞の有様を知る上で貴重な史料となっている。先に述べたように、明時代の中国における陶磁器の製作は、青花や五彩などの絵付け磁器を中心に展開していた。したがって、「唐物趣味」とは中国からもたらされた美術工芸品を高く評価する価値観であるが、それは同時代の中国陶磁史の動向とは関係なく、日本で独自の発達を遂げた美意識なのである。
 このような事情は馬蝗絆の銘をもつ青磁茶碗(図*)をめぐるエピソードに端的に示されている。この茶碗には江戸時代の儒学者伊藤東涯によって享保十二年(一七二七)に著された『馬蝗絆茶甌記』が添えられている。これによると、この茶碗は平重盛が安元初年(一一七五頃)に中国の育王山に黄金を喜捨した返礼として時の住持仏照禅師から贈られたものであり、その後将軍足利義政の所持するところとなった。この時底にひび割れがあったため中国に送りこれに代わるものを求めたところ、明時代の中国にはそのような優れた茶碗はすでに無く、ひび割れに鎹を打って送り返してきた。あたかも大きな蝗のように見えるこの鎹によってかえっていっそうの趣が生まれ、「馬蝗絆」と名付けられて大切に伝えられたというのである。
 考古学的な発掘調査の成果に基づく砧青磁の年代観によると、「馬蝗絆」の製作時期は十三世紀と考えられ、平重盛所持の伝承の信憑性は薄いと言わなければならない。一方、「唐物」として宋時代の青磁を高く評価する伝統がある日本には、中国にも残っていないような優れた青磁が伝えられているという認識が、江戸時代中期の享保年間の文献に示されている点は非常に興味深い。中国の青磁の歴史の頂点にある南宋時代の青磁に対する日本人の鑑識眼は、それほどまでに洗練されたものだったのである。
 青磁の魅力、鑑賞の仕方、青磁への愛好は、華麗な絵付けが施された明清時代の磁器に対するそれとは趣をかなり異にしている。中国における陶磁研究の先駆者である陳万里氏は、その著書『瓷器与浙江』(一九四六)の中で浙江の風土が生み出した青磁について実証的な窯址調査に基づいて説き明かした。浙江の青磁を受容し、愛し、選び、伝えてきた日本は、青磁の第二の故郷ということができるのではないだろうか。