論文等

貧なる名人、のんこう

著者: 今井 敦(文化庁美術学芸課)

出版者: 日本陶磁協会

掲載誌,書籍: 陶説 第764号

2016年 11月 1日 公開

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2020-10-05

 「今の吉兵衞は至て楽の妙手なり。我等は吉兵衞に薬等の伝も譲りを得て慰みにやく事なり。後代吉兵衞が作は重宝すべし。しかれども当時は先代よりも不如意の様子也。惣て名人は皆貧なるものぞかし」これは、本阿弥光悦(一五五八~一六三七)の養子である光瑳(一五七八~一六三七)や孫の光甫(一六〇一~八二)らによってまとめられた『本阿弥行状記』第一〇六段の有名な一節である。これにより、本阿弥光悦と樂家の間に深い親交があったこと、光悦周辺が吉兵衞すなわち道入(一五九九~一六五六)の才能を高く評価していたこと、そして当時道入が経済的に困窮していたことが知られる。
 道入は通常樂家第三代に数えられる。長次郎の妻の叔父である二代常慶(?~一六三五)の長男として生まれた。道入は法名で、存命中は吉兵衞と称し、またのんこうの俗称で知られている。樂家歴代の中でも随一の名工の誉れが高く、巧みな箆使いや、多彩な釉技によって、明るく軽やかな、斬新な個性を茶碗の上に発揮した。
 道入がこのような革新性を強く打ち出した背景として、本阿弥光悦からの影響がしばしば語られている。『本阿弥行状記』のほかにも、光悦と樂家との深い関わりを示す文献がいくつか知られており、茶碗作りを個性表現にまで昇華させた光悦から、青年吉兵衞が大きな感化を受けたであろうことは想像に難くない。
 一方で、道入の茶碗の作風は決して光悦の茶碗の後追いではない。たしかに光悦の茶碗の黒楽釉は道入のそれと同じであるが、それは光悦が「吉兵衞に薬等の伝も譲りを得て」おり、また光悦の黒楽茶碗が樂家の窯で焼かれた可能性が高いことを考えれば、当然のことといえる。しかし、道入の茶碗の器形などに、光悦の茶碗との類似性は全く認められない。道入の作陶には、「御ちゃわん屋」としての姿勢が貫かれており、光悦の茶碗にみられる数寄者の自然体とは根本的な違いがある。それは、蛤端とよばれる薄く削り込まれた口縁や、力強く正円形に削り出された高台などに端的にあらわれている。
 道入が生み出した数々の新機軸は、大局からみれば、茶陶に装飾性が取り込まれていった寛永という新たな時代に応えたものといえよう。赤楽茶碗 銘鵺(重要文化財、三井記念美術館蔵)を特徴づける黒々とした独特の景色は、素焼きの段階の火変わりから着想を得て、即興的に塗りつけられたものであるかもしれない。もしそうだとすれば、文様による加飾の萌芽に位置づけられるだろう。
 ただし、道入はただ時流に棹さしていたわけではないように思われる。道入の茶碗の作風の変遷を捉えるには、資料が不足しているといわなければならないが、道入は大印と小印の二種類の印を用いている。このうち小印の作例は数が少なく、作行きがやや異なっており、一般に早期の作といわれている。小印が捺された若山(重要美術品、野村美術館蔵)、山人(樂美術館蔵)、僧正(樂美術館蔵)は、いずれも赤楽茶碗であることから、一応合理性のある見方ということができよう。
 このうち山人はすらりとした細身で長身の茶碗であり、僧正は口縁を三角形に撓めている。いずれも長次郎が生み出した「宗易形」から大きく逸脱している。道入が初期にこのような茶碗を作ったのだとしたら、何を意図していたのであろうか。「宗易形」が「好み物」、「定形」として捉えられてゆく時流への反逆であろうか。そもそも、長次郎が一切の作為を否定して生み出した楽茶碗に、装飾性を取り入れること自体、かなり大胆な変革であろう。そして、道入のこのような行き方は、必ずしも同時代の茶人たちに理解され、受け入れられるものではなく、それゆえ貧乏に甘んじていたのではないだろうかとも想像される。「後代吉兵衞が作は重宝すべし。」は、そのことを語っているのではないだろうか。いずれその価値が理解されるようになるはずだと。
 道入が手捏ね成形、内窯焼成という技術的な方法論とともに長次郎から受け継いだのは、決して「形」ではなく、「今焼」すなわちコンテンポラリーを創造する前衛的な創作精神だったのではないだろうか。