論文等

飞青瓷花瓶小议

著者: 今井 敦(東京国立博物館)

出版者: 紫禁城出版社

掲載誌,書籍: 中国古陶瓷研究 第十二輯

2006年 10月 公開

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2022-05-06

 鉄分を含んだ顔料で斑文を散らした青磁を、日本では飛青磁と呼びならわしている。日本には数多くの飛青磁の優品が伝えられており、とくに茶人により花瓶として珍重されていた様子がうかがわれる。
 石橋美術館所蔵の飛青磁花瓶(註1)は、福岡藩主黒田家に伝来し、重要文化財に指定されている。丸く張った肩から長い頸部が立ち上がり、口部が喇叭状に広がっている。同様の器形は元時代のいわゆる浮牡丹手の花瓶にもみられるが、頸部が付け根に向かって曲線を描いて広がっており、肩の張りがなだからであることから、穏やかな姿となっている。胴の下半には轆轤目が残されている。底裏の中央は丸く浅く彫りくぼめてある。高台畳付の釉をかなり幅広く剥いであり、素地に含まれる鉄分が焦げて赤褐色を呈している。
 釉は厚く、やや失透している。粉青色の釉が施された日本でいう砧青磁よりも緑色がかっているが、日本で天龍寺青磁とよぶ深い緑色とも異なっている。一面にさまざまな形状の鉄斑文が散らされている。これは筆を重ねることにより意図的に不定形に表現されたものと思われる。鉄斑文が青磁釉の中に流下した部分は褐色を呈している。
 同形の類品として英国のデイヴィッド財団コレクションの蔵品(註2)が知られている。また腰が大きく張った玉壺春形の例では大阪市立東洋陶磁美術館の蔵品(国宝、鴻池家伝来、註3)が有名であり、スイスのバウアー・コレクション(註4)、英国のヴィクトリア・アンド・アルバートに美術館(註5)に類品がある。このほか、口部が丸く膨らんだ柑子口(蒜頭)の瓶(重要文化財、個人蔵、註6)がある。ヨーロッパの美術館に収蔵されている作品も日本伝世である可能性が高い。遺跡出土の例としては、福井県福井市の一乗谷朝倉氏遺跡(第一〇〇次調査)で柑子口形の瓶の破片が発見されている(註7)。
 これらは成形や釉色に大きな差異がみられない。とくに底部の作りはほぼ同一ということができる。このことは産地が同一で、製作の時期が近いことを物語っているのであろう。産地は、胎土や釉薬、器形の特徴からみて、浙江省龍泉窯であることは疑いない。製作時期については、かつては南宋末元初とする見解もあったが、玉壺春の器形などから判断して、元時代とみるのが妥当と思われる。元時代の至治三年(一三二三)もしくはその直後に慶元(現在の浙江省寧波)を発ち、日本に向かう途中で沈没した貿易船の積荷である韓国新安沖海底遺物の中に、飛青磁の盤や片口がみられることも(註8)、この種の青磁の製作時期を考える目安の一つとなろう。
 鉄絵具あるいは鉄釉で斑文があらわされた青磁は非常に長い歴史をもっている。中国における釉薬の創始は、商時代中期にまでさかのぼる。植物の灰を水に溶いて器表に塗り、人工的にガラス質の被膜を作り出した灰釉である。この灰釉は基本的な成分や生成の原理の点で青磁と大きく変わるところはない。すなわち、灰釉が成分や焼成法の改良を重ねてむらなくなめらかな安定した釉層を作り出し、美しい青色を呈しているものが青磁ととらえることができる。灰釉が施された陶器は、青磁の直接的な祖形という意味で、原始磁器ないし原始青磁と呼ばれることがある。ここから元時代までの中国陶磁史は、青磁を軸に展開したといっても過言ではない。
 中国の青磁は後漢時代に現在の浙江省北部において成熟の段階を迎えた。釉色は灰色や黄みを帯びていて、宋時代の青磁とは大きな開きがあるものの、素地や釉薬の性質の点で青磁と呼ぶにふさわしい水準に到達したのである。そして三国時代になると青磁は質量ともに目覚しい発展を遂げ、西晋、東晋時代の南京や浙江省一帯の墳墓からは、神亭壺や天鶏壺などの特色ある青磁が出土する。これらの青磁は、日本では古越磁と呼ばれている。
 鉄斑文による青磁の装飾は、古越磁の段階から行われており、とくに東晋時代にさかんになった。この時期の鉄斑文は、器物の口縁部などに規則的に並べられている点に特色がある。そして、唐時代の?州窯(浙江省金華市一帯)や長沙窯(湖南省長沙市)にみられる鉄釉を用いた大ぶりの斑文の装飾もまた、古越磁に始まる鉄斑文装飾の系譜のうえに位置すると考えられる。長沙窯では、鉄斑文を連ねて具象的な文様があらわされた例も知られている。
 しかし、鉄斑文による青磁の装飾は、宋時代に入るといったんすたれてしまう。唐時代後期に浙江省北部の越州窯において青磁が長足の進歩を遂げ、法門寺塔地宮出土品に代表されるように、秘色青磁と呼ばれる美しい青磁が焼かれるようになった。青く澄んだ釉色の正真正銘の青磁が完成されたのである。これ以降、いわゆる宋磁においては美しい釉色の追求が主要なテーマの一つとなる。その際、鉄斑文が生み出す強いコントラストは、いささか異質のものとして排除されていったと考えられる。宋時代の青磁にも文様があらわされることはあるが、その大半は彫りによる表現であり、釉色の濃淡が織り成す文様は、釉色の美しさを損なうどころか、むしろこれをいっそう引き立てる働きをしている。
 宋時代の青磁の最高峰が気品あふれる汝窯の青磁であり、幽邃な趣をもつ官窯の青磁であり、また明るい粉青色の釉が厚く掛けられた龍泉窯の砧青磁であることは衆目の一致するところであろう。砧青磁の生産は元時代にも続いているが、しだいに器形が崩れ、釉色が濁ってくる。やがて浮牡丹手のような付加的な装飾が広く行われるようになり、陶磁器の作風は大きく変容してゆく。そして、元時代後期に江西省の景徳鎮窯において青花の技術と様式が完成されたことを契機として、筆彩で文様が描かれた磁器が主役に躍り出るのである。
 さて、鉄斑文による青磁の装飾は、長い空白を経て元時代に龍泉窯で復興された。元時代の飛青磁は、古越磁の鉄斑文とは異なり無作為に散らされたものであるという見解がある(註9)。また、元時代の陶磁における装飾の流行に沿ったものととらえる考え方があり、これを龍泉窯青磁の釉色の衰えと関連付ける見方も示されている(註10)。元時代の飛青磁は陶磁史のうえでどのように位置づけられるのであろうか。
 鉄斑文の配置は、一見不規則にみえるが、どの角度からみても均衡が崩れないように絶妙の計算が働いている。鉄斑文はそれぞれの高さでほぼ均等に三方に配されており、その意味ではかなり規則的であるといえる。一つ一つの斑文は、意図的に不定形に表現されている。高度な技巧をこらしながら、作為を感じさせない作風は、たとえば吉州窯の玳玻天目になど近く、むしろ宋磁と通じる要素といえる。そして、飛青磁の鉄斑文はそれ自体では装飾としては成立しない、言い換えれば青磁の釉色との調和に立脚している点に留意すべきである。
 宋磁の特色はバランスの良さと緊張感にあるといわれる。器形でいえば、唐時代の万年壺のどっしりとした安定感のある姿とは異なり、ほっそりとした端整な形をしている。直線と曲線とを組み合わせて変化に富んだ姿に作りあげられており、各部が心地よい緊張感を生み出しているのである。釉薬の美しさをみても、白磁にしても青磁にしても、けっして単純な白や青ではなく、陰翳に富んだ、味わい深い釉色を示している。
 飛青磁の釉色は、汝窯青磁の崇高さや、官窯青磁の重厚さとはやや性格を異にしているものの、やはり滋味豊かである。釉面に絶妙の間隔で散らされ、黒の中にほのかに褐色が浮かぶ鉄斑文は、青磁の釉色を引き立て、いっそう魅力的なものにしている。青磁は本来玉の質感を目指しており、胎土を見せないためのさまざまな工夫がなされたが、飛青磁では明らかに高台畳付の赤褐色の焦げと緑色の釉色との対比を狙っている。これ以上の作為によって調和が破られれば、すべてが無に帰する危うい緊張の上に成り立っており、爛熟の趣がある。元時代は新旧交代期であり、さまざまな流れが平行して存在していたととらえるべきであろう。飛青磁は宋磁の、さらには青磁の歴史の最後の到達点なのである。