論文等

曾被认定为修内司窑作品的青瓷瓶

著者: 今井 敦(東京国立博物館)

出版者: 故宮出版社

掲載誌,書籍: 故宮博物院八十五华诞宋代官窑及官窑制度国际学术研讨会论文集

2012年 8月 公開

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2022-05-06

 東京のアルカンシェール(Arc-en-ciel)美術財団に一件の青瓷瓶が収蔵されている。近代以前に日本にもたらされ、茶席の花瓶として使用されていた。高さは23.5cm、口径は8.9cm、足径は10.2cmである。日本に伝えられた中国産の青瓷瓶の中でも最高の優品として不動の評価を得ており、日本の国宝に指定されている。胴の下部が丸く膨らんだ姿から、日本の茶人によって「下蕪」と呼び慣わされている。どっしりとした豊かな胴の張りがとくに印象的である。口部は鐔状に開き、頸部は太く伸びやかである。足部は大きめで、安定感がある。各部分が絶妙の比例で調和をなしていることから、堂々とした威厳と落ち着き、そして品格が感じられる。薄手に作られているらしく、手に取ると軽い。
 圏足の端部除いて総体に、淡く気品のある青色の釉薬が施されている。ほとんど黄味を感じさせない釉色の美しさは特筆される。龍泉窯で南宋時代に焼かれた粉青釉と比べて透明感が無く、光沢が強くない。開片は見られない。圏足の端部には灰白色の胎土が見える。付属の黒漆塗の箱の蓋裏に朱漆で「節斎岡氏什物」と書かれており、江戸時代(1603~1868)以前に中国から日本に運ばれたものと考えられるが、請来された時期や伝来の経緯についてはよくわかっていない。
 この青瓷瓶は日本ではかつて南宋時代の修内司官窯の代表作といわれていた。官窯とはあらためていうまでもなく宮中の御用品を焼くために置かれた窯をいう。『坦斎筆衡』などの文献は北宋時代の官窯の存在を伝えているが、窯の所在地、運営のあり方、製品の特徴などについてはほとんど手がかりがない。宋室南渡ののち、都の臨安(現在の浙江省杭州)に官窯が置かれた。『坦斎筆衡』によるとまず「修内司」に置かれた「内窯」で青瓷が焼かれ、のちに「郊壇下」に「新窯」が開かれたという。このうち郊壇下官窯の窯址は1930年に杭州南郊の烏亀山山麓に発見されている。郊壇下官窯の青瓷は、鉄分を多く含む灰黒色の胎土に釉薬が厚く施されており、深みのある幽邃な釉色と、開片とよばれる釉薬のひび割れに特徴がある。
 一方の修内司官窯の実像を解明するために、杭州領事であった米内山庸夫氏は杭州一帯を丹念に踏査し、1930年に鳳凰山の麓に窯址と思われる遺跡を発見した(注1)。ここから採集された瓷片の中に、白っぽい素地に淡い青色の美しい釉薬が厚く掛けられた上質の青瓷片が含まれていたことから、日本ではこの国宝の青瓷瓶をはじめとする数点の青瓷が修内司官窯の作例と考えられるようになったのである。たしかに、この種の青瓷は胎土、釉薬、造形のいずれをとっても、龍泉窯青瓷とはやや異なる点があり、そればかりでなく官窯の名にふさわしい高い気品と威厳を備えている。
 ところが、米内山庸夫氏が鳳凰山の麓の遺跡で採集した瓷片の中には、青瓷ばかりでなく白瓷や黒釉瓷などさまざまな種類の瓷片が含まれており、生産遺跡の出土品としてはいささか純粋性に欠けることから、窯址とは認められないという意見が出され、おもに日本において主張された修内司官窯についての見解は、世界的に広い支持を得るまでには至らなかった。かつて修内司官窯に分類された一群の青瓷については、その後日本においても、龍泉窯で焼かれた特に質の高い青瓷と考える説が主流となってきている。
1996年に杭州鳳凰山北麓の老虎洞に窯址が発見され、南宋官窯の研究は新たな局面を迎えた(注2)。老虎洞窯址では、郊壇下官窯と同様に、灰黒色の胎に釉薬が厚く施され、開片が縦横に走る青瓷が発見されている。同地では「修内司」の文字が入れられた轆轤の部品がみつかっており、これを文献にいう修内司官窯に比定する意見がある。修内司官窯、郊壇下官窯とも、一貫して黒胎の青瓷を焼いていたのだとすれば、国宝の青瓷瓶はこれに該当しない。また、龍泉窯において粉青色の厚釉の青瓷が完成されたのが南宋中期であることを考えれば、日本でかつて修内司官窯と考えられた一群の青瓷を、郊壇下官窯に先立つ南宋時代前期の官窯青瓷に位置づけることは困難であろう。
それでは、国宝の青瓷瓶の産地は龍泉窯と考えればよいのであろうか。この青瓷瓶の生産窯について、筆者は陶瓷器の研究に携わる何人かの中国人の専門家に意見を求めたことがあるが、龍泉窯と断定する見解は今のところ聞いていない。すなわち、龍泉窯の窯址において、この種の瓷片は今のところ発見されていないということであろう。むしろ、釉薬の特徴などに、官窯の技術との関連を指摘する意見も示されている。
 もっとも、龍泉窯の中核である大窯では、南宋時代の窯址の本格的な発掘調査がまだ行なわれていない。そのため、龍泉窯における上質の青瓷の生産のあり方や、粉青色の厚釉の青瓷が完成に至る過程については今なお不明な点が残されているといわなければならない。また郊壇下官窯址出土の青瓷片をみても、すべての瓷片に開片がみられるわけではない(注3)。一方で龍泉窯の渓口窯址などでは南宋官窯と同様の黒胎青瓷が出土しており(注4)、宮廷が龍泉窯に注文して青瓷を焼かせた可能性も指摘されている。したがって、南宋官窯と龍泉窯との間に技術交流があった可能性は高い。さらに宮廷向けに白胎青瓷が焼かれた可能性も考えなければならないだろう。もちろん未知の青瓷窯の存在も考えなければならない。
日本でかつて修内司官窯とよばれた青瓷瓶の位置づけは、単なる生産窯の問題にとどまらず、南宋官窯と龍泉窯の双方の歴史の解明と密接に結びついてくる。それは、この作品が放つ圧倒的な力強さと気品をどのように解釈するかにかかっているということもできるのである。