口頭発表

东传日本的青瓷茶碗“马蝗绊”

学会,機関: 浙江省博物馆 龙泉青瓷国际研讨会

発表者: 今井 敦(東京国立博物館)

1998年 10月 14日 発表

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2022-05-06

東京国立博物館に「馬蝗絆」という名の青磁茶碗が蔵されている。この青磁茶碗は中国・浙江省の龍泉窯で南宋時代に焼かれた青磁茶碗であり、質がたいへん優れているばかりでなく、その伝来にまつわるエピソードを伴っていることによって非常に有名である。
灰白色の胎土を用い、高台〔圏足〕から張りのある曲線を描いて立ち上がる端整な姿をしている。高台は薄く丁寧に削り出されている。高さは6.8cm、口径15.0cm、高台径4.7cm、高台高0.7cm、高台畳付の幅0.2cm、重さは292gである。口縁の六箇所に外側から小さな切り込みが入れられて、輪花形〔葵口〕になっており、最小限にしてきわめて効果的な装飾となっている。内底は円形に平らになっている。胴部の外側には三条の右上がりの筋が認められ、これは轆轤挽きの跡と思われる。
龍泉窯産の青磁の中でも、澄んだ粉青色の釉が厚くかけられた美しい青磁は、日本では「砧青磁」とよばれ珍重されている。この馬蝗絆は、日本に伝来した数多くの砧青磁の中でも特に質が高く、青磁茶碗としては最も優れたものである。馬蝗絆の釉の色は、砧青磁、すなわち白胎厚釉青磁の中ではやや緑色がかっており、高台畳付を除いて全面に施されている。口縁部の近くは、内外ともに釉薬が厚く掛けられている。胎土がかなり白いため、光が当たると一段と華やかになり、あでやかに見える。
馬蝗絆は、高台の周囲に沿って大きなひび割れが巡っており、その一端が口縁にまで達している。このひび割れは、割れかたから判断して、おそらくこの茶碗に熱湯を注いだ際に生じたものであろう。このひび割れに六個の鎹を打って修理がなされており、これが馬蝗絆という銘の由来となっている。すなわち、ひび割れに打たれた鎹を、大きな蝗に見立てて名づけられたのである。
この茶碗には江戸時代の日本人儒学者、伊藤東涯によって享保十二年(公元一七二七年)に著された『馬蝗絆茶甌記』という文書が添えられている。この『馬蝗絆茶甌記』には、この青磁茶碗の伝来と、「馬蝗絆」という銘の由来とが詳しく記されている。日本に伝来した中国産の茶碗の中で、最も古い伝承を伴っているのであり、このことによって馬蝗絆の価値は一層高められている。
『馬蝗絆茶甌記』の記載に従えば、この茶碗の伝来は以下の通りである。この茶碗は安元初年(公元一一七五ころ)に、日本人の武将・平重盛(宋と日本の間の貿易を積極的に推進した平清盛の子)が浙江省杭州の育王山に黄金を喜捨した返礼として、当時の住持仏照禅師より贈られたものである。その後、室町時代(公元一三三八~一五七三年)になって、将軍(当時の政権の長)である足利義政(在位一四四九~一四七三年)が所蔵するところとなった。このとき、この茶碗は底にひび割れがあったため、これを中国(明)に送って、これに代わる茶碗を求めたところ、その当時の中国にはこのような優れた青磁茶碗はすでになく、ひび割れに鎹を打って日本に送り返してきた。あたかも大きな蝗のように見える鎹が打たれたことによって、日本ではかえってこの茶碗の評価が一層高まった。足利義政はこの茶碗を侍臣の吉田宗臨に与えた。この吉田家はのちに角倉家となり、吉田宗臨の九代後の子孫、玄懐の代の享保十二年(公元一七二七年)に伊藤東涯がこの茶碗を実見し、『馬蝗絆茶甌記』を著したのである。
さて、『馬蝗絆茶甌記』の記述によれば、この青磁茶碗「馬蝗絆」が杭州の仏照禅師から日本の平重盛に贈られたのは日本の安元年間、すなわち公元一一七五~一一七七年のこととなる。しかし、龍泉窯青磁の研究の成果に基づく「白胎厚釉青磁」の完成の時期は、南宋時代中期であり、馬蝗絆の製作年代を一一七〇年代まで上げて考えることは難しい。また、日本各地の遺跡において、この種の青磁が多量にみられるようになるのは、やはり十三世紀中頃からのことである。したがって、『馬蝗絆茶甌記』に記された伝承のうち、仏照禅師から平重盛に贈られたという部分は、史実であるとは考えにくい。
一方で、日本には中国からもたらされた茶碗や花瓶などを大切に伝える伝統があるものの、破損した茶碗を修理する場合には漆を使用するのが通例であり、鎹を用いるのは一般的ではない。また、馬蝗絆は丁寧に作られた黒漆塗の曲物の箱に入れられている。この箱は三箇所に環が取り付けられており、内側には緞子とよばれる高価な布が張られている。箱の大きさや、底の内側の布が擦れている部分が馬蝗絆の高台の径と一致していることから判断して、この箱が馬蝗絆のために誂えられたものであることは間違いない。日本人の漆器研究者の見解によると、この箱は中国製である。したがって、馬蝗絆はある時中国において特別に丁重な扱いを受けており、それが日本に運ばれたものであることは疑いのないところである。しかも、中国において修理を受けた茶碗が、日本にもたらされたのだとすれば、それには相応の理由があるはずである。
日本には、中国や朝鮮からもたらされた優れた陶磁器を茶道具として大切に伝える伝統があるため、質の高い龍泉窯青磁や天目が数多く残されている。公元一七二七年に日本人の儒学者・伊藤東涯によって著された『馬蝗絆茶甌記』の中に、日本には中国にも残っていないような優れた青磁が伝えられているという認識が示されている点は大変興味深い。
龍泉窯産の青磁は、中日の交流、および日本の文化の中で大きな役割を果たしてきた。日本に伝来した青磁茶碗「馬蝗絆」、そしてこの茶碗をめぐる「伝承」は、龍泉窯青磁を介した中日の文化交流がいかに盛んであったかを雄弁に物語っている。今後、中日両国の研究者によって、さまざまな角度から実証的な研究が進められることにより、馬蝗絆をはじめとする龍泉窯産の優れた青磁が日本に請来された時期やその背景について、真相が究明されることを希望します。