論文等

永青文庫の中国陶磁コレクション

著者: 今井 敦(東京国立博物館)

出版者: 公益財団法人永青文庫

掲載誌,書籍: 季刊永青文庫№101

2018年 2月 10日 公開

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2021-12-10

 永青文庫所蔵の中国陶磁コレクションは、大きく二つの柱から構成される。一つは永青文庫の創設者である十六代当主細川護立(一八八三~一九七〇)氏の蒐集品、もう一つは細川家伝来の茶道具である。
 細川護立氏は稀代のコレクターとして知られる。美術品への関心は、刀剣や刀装具から始まり、続いて白隠や仙★の書画を精力的に蒐集した。当時はまだ近世の禅画は見過ごされていたといってもよく、「いいわるいではなく、書いたものが好きになったので集めたのです。」と、気に入った作品は世間の評価にかかわらず、果敢にコレクションに加えていった。
 氏はもともと中国への関心が高かった。幼少の頃から漢籍に親しみ、『唐詩選』を愛読していた。義和団事件が起こった明治三十三年(一九〇〇)頃、初めて単身北京を訪れている。東洋美術に関しても、蒐集は氏独自の価値観に基づいて選択が行われた。中国河南省洛陽金村出土の金銀錯狩猟文鏡は、当時まったく類例が知られていなかったにもかかわらず、「考えないで買ったんですよ。」と購入を即決している。のちに「細川ミラー」と称されるようになるこの鏡は、昭和四十二年(一九六七)に国宝に指定されている。
 細川護立氏が蒐集した中国陶磁は、「鑑賞陶器」と呼ばれるジャンルにあたる。二十世紀初頭頃に、茶陶を中心としたそれまでの陶磁器鑑賞に対して、用途にこだわらず、純粋に美的観点から陶磁器を評価しようとする動きがあらわれた。中国陶磁では、唐三彩、磁州窯、明・清の景徳鎮官窯磁器などがこれにあたる。唐三彩や磁州窯が注目されたのは、一九〇四年に始まる★洛鉄道工事や鉅鹿遺跡の発見によって、それまで知られていなかった種類の出土古陶磁が続々と古美術市場に現れるようになったことを反映している。また、明・清の官窯磁器は、清末の混乱期に古美術市場に流出し、関心がもたれるようになった。細川護立氏は、静嘉堂文庫を設立した岩崎彌之助氏(一八七九~一九四五)、岩崎小彌太氏(一八五一~一九〇八)父子や、横河民輔氏(一八六四~一九四五)らとともに、鑑賞陶器蒐集の草分けであった。 
 鑑賞陶器に分類される陶磁器のうち、漢から唐時代までの作品の多くは明器、すなわち墳墓の副葬品である。皇帝や王族、貴族たちは、生前の豊かな生活を彩ったありとあらゆる調度や動物、人物などの姿を陶器で写し取って、来世の暮らしに備えようとした。
 氏が蒐集を始めた当時は、墓から出たものを飾ることに抵抗を感じるむきもあったと伝えられるが、氏は「どこから出ようが、いいものはいいんだ」と積極的にコレクションに加えていった。灰陶三人将棋盤は他に類例の知られない珍品、灰陶加彩馬は気品溢れる優品である。明器は造形的な魅力ばかりでなく、当時の生活風俗を今に伝えてくれる点で貴重である。
 唐三彩は細川コレクションの中でもとくに充実した分野であり、現在重要文化財に指定されている唐三彩四点のうちの二点を占める(残りは東京国立博物館に一点、静嘉堂文庫美術館に一点)。氏は「唐の時代に興味があったから、唐三彩から入った」と語っている。
 ここで唐三彩について簡単に触れておく。三彩とは、複数の色の釉薬を掛け分けて彩る技法をいう。通常は白、緑、褐色の三色であるが、二色のもの、あるいは藍色を加えて四色のものも、やきもののジャンルの呼び名として三彩の語が用いられる。三彩に用いられる釉薬は、溶媒として鉛を加えた鉛釉で、八〇〇℃程度で溶融する低火度釉の一種である。
 中国で最古の釉薬は、植物を焼いた灰を水に溶いて器物の表面に塗りかけ、一一〇〇~一三〇〇℃の高温で焼いた灰釉である。商時代前期に現れ、のちの青磁の直接的な祖先であることから、原始青磁とも呼ばれる。高火度釉であるこの灰釉は、安定した釉層を作り出すのが技術的に難しく、後漢時代に青磁として成熟した段階に到達するまで一五〇〇年余を要したが、中国陶磁の主流はあくまで青磁、白磁、天目といった高火度釉の陶磁器であった。
 これに対して、鉛釉が誕生したのは戦国時代のことである。焼成温度が低いために脆く、実用性において劣る反面、なめらかで美しい釉層を作り出すことが比較的容易であり、また銅を成分に加えた緑釉や鉄を成分に加えた褐釉など、鮮やかな発色を得ることができる。このため、漢時代の緑釉陶器など、おもに墳墓に副葬するための明器として発達した。
 南北朝時代の末、六世紀の華北地方では、白色の素地に透明釉を施した白色の陶器が焼かれるようになっていた。そしてこの白色をベースに、唐時代の七世紀後半になって、緑釉、褐釉などを掛け分けた三彩が誕生するのである。唐三彩はおもに貴族の墳墓に副葬するための明器として作られ、出土地は都の置かれた長安(現在の陝西省西安)と洛陽に集中している。国際色豊かな当時の貴族文化を反映しており、貴族社会を大きく揺るがした安史の乱(七五五~六三)を境に、姿を消した。
 細川護立氏は「どうも物を見てから研究をして、などと云っていると買う気合がなくなるね。三振するかホームラン打つかというんじゃなくてはおもしろくないですよ。」と語っているが、これは氏一流の謙遜であり、大正末の渡欧に先だっては、陶磁研究者の奥田誠一氏(一八八三~一九五五)から教えを受け、彫刻家で中国陶磁のコレクターであった新海竹太郎氏(一八六八~一九二七)や横河民輔氏のコレクションを実見している。渡欧中も、パリを拠点に、フランス、英国、ドイツなどを精力的に見て回っており、英国東洋陶磁学会の初代会長を務めた蒐集家ジョージ・ユーモルフォプロス氏(一八六三~一九三九)と交誼を結ぶなど、作品に即して貪欲に学ぶ姿勢を見せている。また、同好の士と楽しみを分かち合うヨーロッパのコレクターの有り様から啓発されるところも大きかったのではないかと想像される。
 重要文化財に指定されている三彩宝相華文三足盤(図1)は、数ある唐三彩の中でも群を抜いた優品である。ジョージ・ユーモルフォプロス旧蔵の類品(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館蔵)が知られる。口縁が鋭く折られ、環状の脚が付いた器形は、金属器に倣ったものと思われる。中央に宝相華、その周囲に飛雲を型押しで配し、緑釉と褐釉で彩られた地の部分には、蝋抜きと呼ばれる技法で、細密な魚々子文が表されている。この作品は、フランスで活躍していた古美術商C・T・ルー(盧芹斎)氏から昭和二年(一九二七)に購入している。翌年華族会館で展示公開され、その折りに刊行された図録『唐三彩図譜』(岩波書店)で表紙を飾っている。日本における唐三彩蒐集を代表する作品である。
 三彩獅子(図2)もパリでC・T・ルーから一九二六年に求めたもの。類品の中の白眉として定評のある作品であるが、ルー氏自身はあまり重きを置いていなかったらしく、「箱も何もなくて、下の戸棚に入っていた」という。護立氏が世間の評判に惑わされることなく、一流の鑑識眼で優品を入手したエピソードの一つである。
 唐が滅んだのち、五代十国の分立抗争の時代を経て、宋が中国を再び統一する。宋時代は中国陶磁史上の黄金時代といわれる。中国各地に窯が興って、青磁、白磁、天目とそれぞれに個性を競った。技術の向上は目覚ましく、作風は洗練をきわめ、端整で引き締まった器形の美しさと、滋味豊かな釉色の美しさとが極限まで追求された。永青文庫所蔵の宋時代の陶磁器は、点数は多くないものの、宋磁を代表する優品が含まれている。
 白釉黒花牡丹文瓶(図3)は、白鶴美術館所蔵の白釉黒花龍文瓶とともに、日本にある磁州窯の双璧とされる。磁州窯のやきものが広く知られ、鑑賞や蒐集の対象となったのは、二十世紀初頭のことである。現在の河北省南部にある鉅鹿において、干魃のために農民が井戸を深く掘ろうとしたところ、偶然に遺跡が発見された。同地で発見された碑文に、北宋時代末の大観二年(一一〇八)の秋に★河の氾濫で町が一挙に泥土に埋もれたとの記載があり、十二世紀初頭の都市の暮らしぶりがそのままに封じ込められた遺跡であることが明らかになった。この鉅鹿の遺跡から磁州窯の陶器が大量に出土し、古美術市場に現れて注目されるようになったのである。磁州窯の陶器の俗称として鉅鹿あるいは鉅鹿手と呼ばれるのはこのためである。
 磁州窯とはあらためていうまでもなく現在の河北省邯鄲市郊に位置する窯場の呼び名である。磁州窯の陶器を特徴づけるのが、鉄分を含む灰色の胎土に、水に溶いた白土を厚く掛ける白化粧の技法である。一方、同種の陶器を焼いた窯場は、華北地方のかなり広い範囲に数多く分布しており、代表的な窯場の名をとって磁州窯と総称されている。すなわち、磁州窯の名は、あるジャンルの陶器の呼び名として用いられている。
 磁州窯は白磁とは異なり、わずかな白土を用いて見た目に白いやきものを作りだそうという工夫から生み出されたものであり、広く民衆の日用に供された。釉膚は磁器とは異なる柔らかみ、温かみを感じさせる質感をそなえている。器形は実用に根ざしながらも、鋭く折られた口縁にみられるように、宋磁特有の引き締まった姿を見せている。民窯ゆえに仕上げには粗さがみられるものの、かえってその鷹揚な作風が独特の魅力を生み出している。
 宋時代の陶磁器の主流は青磁、白磁といった単色の陶磁器であり、文様は多くの場合彫りや型押しで表される。青磁や白磁の場合、彫り文様は釉色の濃淡で表現されるが、白化粧を施した磁州窯の陶器の場合、彫った部分だけ灰色の素地が露出し、文様は色調の対比で表される。いわゆる掻落としの技法である。そして、灰色の素地に掛けた白化粧を削り落として文様を表す白掻落としよりも、いっそう劇的な表現効果を狙って生み出されたのが白地黒掻落としの技法である。
 白地黒掻落としの製作工程は、以下の通りである。まず灰色の素地で器体を作り、底部を除いて総体に白化粧を施す。次に器の主要な部分に鉄分を含んだ鉄絵具を塗り、いったん全体を黒くしてしまう。そして下の白化粧地まで削り落とさないように注意しながら、鉄絵具を削り落として文様を表し、最後に全体に透明釉を掛けて窯で焼き上げる。彫りによる陶磁器の文様表現としては、もっとも手の込んだ技法であり、白と黒のコントラストに加えて、掻落としによる文様の輪郭は明晰で力強く、印象的な優品が多い。白地黒掻落としは北宋時代末の一時期に限って流行し、それ以降は白化粧を施した白地に鉄絵具を用いて筆彩で文様を描く鉄絵の技法に移行する。
 この瓶は肩が張り、銅裾に向かってなだらかに窄まる姿であり、俗に梅瓶と呼ばれる。胴部に上下二段に表された牡丹の折枝文は、外郭が菱形にまとめられており、花弁や葉脈には細い線彫りが加えられ、葉や茎の先端をくるりと丸めることにより、巧みに動きを表現している。瑞々しさとともに凛とした気分をそなえており、白地黒掻落としによる文様表現の特色がよく現れている。荒々しい削り跡からは、一気呵成に仕上げたさまが窺える。この瓶が護立氏の目に留まったのは、洒脱でありながら豪放磊落なその作風の魅力ゆえであろう。
 さて、中国陶磁史は元時代を境に大きくその様相を変える。宋時代には宮中の御用品は官窯で焼かれた青磁であったが、宋を滅ぼしたモンゴル族の元王朝は、白色を尊んだことから、江西省の景徳鎮に浮梁磁局を置いて、白磁を焼造させた。そして、元時代後期に景徳鎮において青花(染付)磁器の技術が完成されたことから、これ以後絵付けによる装飾が中国陶磁史の主流となってゆく。元を北方に追いやって漢族による統治を回復した明、そして明を滅ぼして中国を支配した満州族の清の時代にも、官窯は引き続き景徳鎮に置かれ、景徳鎮は磁都としての地位を揺るぎないものとする。
 永青文庫の所蔵の景徳鎮産の磁器では、清時代の官窯磁器が際だって優れており、国内有数のコレクションとなっている。清の宮廷は文化の振興に力を注いでいた。古典籍や書画の蒐集、古銅器、古陶磁、文房四宝などの蒐集をはじめ、『康煕字典』、『四庫全書』などの編纂、出版事業が行われた。宮中には造辧処と呼ばれる時計、ガラス、七宝などの各種の工房が置かれ、その中に磁器の絵付けの工房である琺瑯作があった。
 琺瑯彩西洋人物図連瓶(図4)は、宮中の琺瑯作で絵付けが施された琺瑯彩である。景徳鎮で焼かれた上質の白磁を北京の宮中に運び、宮廷画家が絵筆をふるったといわれる。当時フランスのリモージュで流行していたクロワゾネ、すなわち無線七宝の技法を磁器の装飾に応用した粉彩の技法が用いられている。粉彩の開発により、絵付けに使うことのできる色数が飛躍的に増加し、また濃淡やぼかしを活かした繊細な表現が可能になった。琺瑯彩西洋人物図連瓶は、絵付けの技術ばかりでなく、画題もヨーロッパ由来であり、ギリシャ神話の「パリスの審判」の図が陰影法を駆使して描かれている。昭和十年(一九三五)に重要美術品の認定を受けており、それ以前に護立氏が入手していたことが知られる。
 細川家伝来の茶道具は、二代当主である細川忠興(三斎、一五六三~一六四五)が大きく関与している。忠興(三斎)は千利休(一五二二~九一)門下の著名な茶人であり、利休七哲の一人に数えられる。豊臣秀吉(一五三七~九八)の勘気にふれ、堺に蟄居を命じられた利休を、古田重然(織部、一五四三~一六一五)とともに淀の津で見送った逸話は有名である。本能寺の変において、妻ガラシャ(一五六三~一六〇〇)の実父とはいえ、謀叛人である明智光秀(一五二八~八二)には与しなかったように、武人として筋を通す強い性格の故にとった行動であろう。大胆で自由な気風の茶で一世を風靡した重然(織部)とは対照的に、忠興(三斎)は師利休の茶風を忠実に継承したといわれる。
 このため、永青文庫には利休ゆかりの茶道具が少なからず伝えられている。唐物尻膨茶入 銘利休しりふくら(図5)は千利休所持の伝来を持つ唐物尻膨茶入を代表する名品であり、関ヶ原の戦いの後、慶長六年(一六〇一)に、軍功として徳川秀忠(一五七九~一六三二)から忠興(三斎)が拝領した。また、南蛮芋頭水指(図6)は、『松屋会記』久重茶会記の三斎茶会に登場し、伝世の南蛮物のなかで、唯一同時代文献に確認できるものである。黄天目 珠光天目(図7)は、二重に掛けられた釉薬が複雑に交錯する釉調が侘びた情趣を生み出しており、珠光(一四二三~一五〇二)が所持していたという言い伝えがある。細川家とその家臣たちが所蔵していた茶入と茶碗を綿密に写し取った画帖である「茶入れ茶碗写真帖」に「珠光天目」とあることから、細川家に伝来したことが知られ、忠興(三斎)が所持していた可能性も考えられる。
 永青文庫が所蔵する中国陶磁がまとまって公開される貴重なこの機会に、ひときわユニークな個性を放つこのコレクションを十分に御堪能いただきたい。



参考文献「蒐集懐旧ー鼎談 細川コレクションを聞くー」『陶説』第一三〇号 日本陶磁協会 一九六四年