論文等

「古九谷」概念の形成と変遷について―「古九谷様式」の再検討―

著者: 今井 敦(東京国立博物館)

出版者: 東洋陶磁学会

掲載誌,書籍: 東洋陶磁 42号

2013年 3月 31日 公開

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2020-10-28

 古九谷ないし古九谷様式といえば、通常五彩手、青手、祥瑞手(南京手)の三種の色絵磁器を指すが、産地について論議する前に、この概念がいつ頃どのように形成されたのかを検証したい。明治28年(1895)に加藤恒が著した『加賀越中陶磁考草』では、古九谷として今日いう五彩手、青手そして吸坂手の三種が挙げられている。後藤才次郎作といわれる金剛童子像(国分山医王寺蔵)が国宝に指定されるのは明治33年(1900)のことである。東京国立博物館の前身である帝室博物館の記録をみると、今日古九谷の代表作とされている作品が、明治から大正期にかけては再興九谷あるいは中国陶磁とされており、この頃には今日のような古九谷の概念はなかったことがわかる。
 古九谷の概念形成に決定的ともいえる大きな影響を及ぼしたのが、彩壺会の大河内正敏によって大正8年(1919)に発表された「古九谷論」である(『講演録』は大正10年)。「古九谷論」では古九谷として「1.南京手、2.宗達手、3.守景手、4.伊万里手、5.波斯手、6.青九谷、7.吸坂手、8.青磁手」の八種があげられており、とくに南京手が後藤才次郎個人の事績として強調されている。東京国立博物館の前身である東京帝室博物館では、昭和6年(1931)と昭和9年(1934)に購入と寄贈によって古九谷を収集しており、おそらくこの頃には古九谷が古陶磁のジャンルとして認知されていたものと考えられる。このように見てくると、現在に通じる古九谷の概念の骨格が固まったのは、早くても昭和初期のことと思われる。「九谷」が加賀産の陶磁器の代名詞となったことからわかるように、「古九谷」は近代の窯業生産地である加賀にとって「必要とされた伝統」だったのである。
 古社寺保存法の時代に金剛童子像が国宝に指定されたのに対して、大河内正敏は古九谷がもつ絵画性に着目した。斎藤菊太郎は、昭和46年(1971)の『古九谷新論』において、従来の「陶工伝」とは異なる視点を呈示している。学術的な窯址の発掘調査は昭和45年(1970)に始まった。荒川正明は平成16年(2004)に出光美術館で開催された特別展『古九谷』において青手の意匠性を高く評価している。今井敦は古九谷の魅力が素材と技法、すなわち上絵具の厚塗りと伏せ焼きによる上絵具の流動性に由来することを指摘した。古九谷の解釈と研究の変遷は、時代の美術史の問題意識を如実に反映しているということができる。