論文等

横河民輔の「中国陶磁」蒐集

著者: 今井 敦(東京国立博物館)

出版者: 東京美術

掲載誌,書籍: アジアン・インパクト 日本近代美術の「東洋憧憬」

2019年 10月 11日 公開

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2020-10-05

 一九〇四年に始まる汴洛鉄道の工事により、洛陽付近の古墓が破壊され、そこから出土した唐三彩が古美術市場に現れるようになった。また、河北省の鉅鹿において、旱魃のため農民が深く井戸を掘ろうとしたところ、北宋時代末の遺跡が発見され、日用の器として用いられていた今日磁州窯と総称される陶器が多数出土した。それまで知られていなかった中国陶磁が続々と発見されたことにより、英国をはじめ世界的に中国陶磁への関心が高まっていった。我が国でも茶陶を中心としたそれまでの陶磁器鑑賞から離れ、美的鑑賞の対象として中国陶磁を捉える動きが現れた。科学的見地にたって陶磁器を鑑賞、研究しようとする機運が興り、大河内正敏氏(一八七八~一九五二)、奥田誠一氏(一八八三~一九五五)を中心として陶磁器研究会が発足し、のちの彩壺会の設立つながってゆく。いわゆる鑑賞陶器と呼ばれるジャンルの誕生である。
 横河民輔博士は、細川護立氏(一八八三~一九七〇)、岩崎小彌太氏(一八七九~一九四五)らと並んで、鑑賞陶器蒐集の草分けの一人である。横河博士は元治元年(一八六四)九月に現在の兵庫県明石市に生まれ、明治二十三年(一八九〇)に帝国大学工科を卒業するとともに当時の三井組に入社、のちに独立して横河工務所を開き、建築家として活躍された。博士が設計を手がけた代表的な建築物に、三井銀行、帝国劇場、銀行集会所、三越(東京、大阪)がある。また大正七年(一九一八)に横河橋梁製作所、同九年(一九二〇)に横河電機製作所を設立し、実業家としても手腕をふるわれた。
 鑑賞における科学性を標榜した彩壺会の中にあっても、横河博士の蒐集の特色は際だっていた。すなわち名品主義に偏することなく、彩陶から清朝の官窯磁器まで、中国陶磁の壮大な歴史の流れが、作品を通して辿れるように集められているのである。
 博士は蒐集した作品の多くを東京国立博物館の前身である東京帝室博物館に寄贈された。御寄贈のお申し出を受けて、作品の選定にあたったのは、奥田誠一氏、そして小山冨士夫氏(一九〇〇~七五)であったが、その条件はただ一つ「君がいいと思うものを選びたまえ」であったという。昭和七年(一九三二)九月十六日に中国陶磁約六百点を寄贈したのちも、昭和十八年(一九四三)まで、合計七回にわたって御寄贈を続けられた。寄贈を目的に蒐集を続けられたといってもよく、御寄贈の総数は千百点余に及ぶ。そして終戦間近の昭和二十年(一九四五)七月に、小田原の別荘にて天寿を全うされたのであった。
 横河コレクションには、コレクター横河民輔個人の趣味や美意識による「色づけ」がなされていない。博物館への寄贈という行為に端的に現れているように、横河博士は自らのコレクションを公のものと捉えておられたようである。官窯ばかりでなく民窯をも網羅し、中国陶磁史のストーリーの全体像に迫ろうとする、科学的で真摯な姿勢から蒐集された体系的なコレクションは、現在もなお東京国立博物館が収蔵する中国陶磁コレクションの骨格をなしている。
 ところで、出土品の発見により初めてその存在が知られるようになった唐三彩、あるいは民窯である磁州窯や河南天目は、中国の伝統的な価値観では評価の対象ではなかったことに留意しておきたい。すなわち、清朝故宮の乾隆帝のコレクションの中には、これらは含まれていないのである。鑑賞陶器は、日本人が主体性を発揮して評価したを行っている点に意義がある。
 技術や情報の一方的な流入は、文化と文化との相互の間の力関係に、著しく非対称な構図を生み出す。近代以降は欧米を相手方とするオリエンタリズムであり、前近代においては中国を相手方とする中華思想というアジア版のオリエンタリズムであった。二十世紀における「アジアの再発見」は、急速に進む近代化の中で、この二つのオリエンタリズムを克服しようとする動きであったとみることができよう。