口頭発表

樂長入の創意について

学会,機関: 茶の湯文化学会 東京例会

発表者: 今井 敦(東京国立博物館)

2021年 10月 23日 発表

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2022-12-23

 樂家は、千利休の創意を受けて楽茶碗を創始した長次郎を初代とし、一昨年に吉左衞門を襲名した当代まで十六代を数える茶碗作りの名跡である。歴代の中では、長次郎のほか、楽茶碗にモダンで軽快な装飾性を取り込んだ三代道入、楽茶碗の原点である長次郎に回帰した五代宗入、個性的な箆削りに新たな境地を見いだし、樂家中興の祖といわれる九代了入らが高く評価されている。これと比べると、享保一三年(一七二八)に襲名し、明和七年(一七七〇)に没した七代長入の評価は、高いとはいえない。
 長入が活躍した時代は、政治史では享保の改革の後、寛政の改革の前のいわゆる田沼時代にあたる。文化史では宝暦・天明文化期に相当する。茶道史においては、茶の湯が町人層にまで爆発的に広まり、家元制度が確立した。表千家では如心斎から啐啄斎、裏千家では又玄斎、武者小路千家では直斎らの活躍期である。そして、長入の茶碗に対するネガティブな評価もまた、口縁のいわゆる五岳に代表される「茶碗の形式化」として、家元制度の成立と結びつけられて説明されることが多い。
 この時期の京焼は、尾形乾山が江戸入谷に下向してから、奥田頴川が本格的な磁器の焼成に成功するまでの、半世紀余りの名工不在の空白期にあたる。しかし、この時代はけっして芸術・文化の低迷期ではない。とくに絵画の分野では、この時代に台頭した町人階級の溌剌とした芸術意欲を背景に、民間のレベルで新しい流派や画風がつぎつぎと誕生し、円山応挙、伊藤若冲、曾我蕭白、池大雅、与謝蕪村といった名が綺羅星の如く並ぶ。美術史家の辻惟雄氏は、「このような新しい動向をうながした内的要因としては、市民層の中に芽生え成長した自我の意識、経験や合理を志向する思想があげられるのだが、より直接的な外的要因とてしは、長崎を経由してもたらされた二つの新しい絵画様式―明清画とヨーロッパ絵画―の摂取がある」と述べている。文学の世界では、大坂に『雨月物語』を著した上田秋成が現れ、また文人趣味とともに煎茶が流行した。
 東京国立博物館に長次郎七種の一つである黒楽茶碗銘鉢開の長入による写しが収蔵されている。鉢開は現存しないため、直接の比較は叶わないが、樂美術館所蔵の長次郎作黒楽茶碗銘面影は、箱蓋裏に石川自安が細川三斎所持の鉢開によく似ていると銘の由来を記していることから、比較の対象として考えてよいのではないかと思われる。長次郎の面影と長入の鉢開写しとは、全体のプロポーション、口縁や高台の形状、釉薬が全く異なっている。長入の鉢開写には五代宗入や六代左入の黒楽茶碗にみられる光沢の失せたカセ釉ではなく、透明感と光沢のある黒釉が施され、口縁は大きく波打ち、見込みには箆で茶筅摺に段を付け、そのまま螺旋状に茶溜まりに続いている。そこには古楽をそのままにコピーしようとする意思は認められない。すなわち、あくまで江戸時代中期という時代を背景とした長入の長次郎理解なのである。
 長入が生きた時代には、近年とみに評価を高めている若冲、蕭白らによって「奇想の黄金時代」が現出した。そこに、上方において、町人が文化に積極的に関与するようになった十八世紀後半における「個の目覚め」「自我の萌芽」の兆しを見て取ることは可能なのではないかと思われる。この時代の茶の湯もまた、そうした時代の空気と無縁であったとは思えない。「家元制度」あるいは「一子相伝」というと、半ば機械的に「封建的」という図式で説明されがちなのだが、長入の茶碗作りにもまた、「奇」を求め、異端をむしろよしとする、時代の感性に共感する部分があったとみることができるのではないだろうか。