論文等

「古九谷様式」再考

著者: 今井 敦(東京国立博物館)

出版者: 石川県九谷焼美術館

掲載誌,書籍: 開館20周年記念 特別展 古九谷の多様性とハレ

2022年 10月 29日 公開

関連研究員(当館): 今井 敦 

データ更新日2022-11-04

 有田において窯址の発掘調査が進むにつれ、従来「古九谷」とされてきた作品群の中に、有田産の素地を用いたと考えられるものが数多く存在することが明らかになってきた。そこで、林屋晴三によって昭和58年(1983)に「古九谷様式」の呼称が提唱された。一部の美術館や考古学の研究の分野においては、「古九谷様式」あるいはその略称としての「古九谷」がいまだに根強くかつ広く用いられている。
 しかしながら、この「古九谷様式」という用語には非常に問題が多い。一つには、有田産の色絵磁器に九谷の名を冠する不合理である。「古九谷」の呼称は当然九谷古窯の製品に対して用いられるべきであろう。もう一つは、「古九谷」を「様式」として捉えることがはらむ重大な問題である。
 有田産の初期色絵が「古九谷」の中に加えられていった理由は大きく二つ考えられる。一つは、有田における最初の色絵が「柿右衛門」であると考えられていたことによる。二つ目は職人が作った量産品よりも加賀百万石の所産としたほうが評価が高まり、金銭的な価値も跳ね上がるからである。昭和初期にそれまで伊万里焼や中国陶磁とされていた作品が続々と「古九谷」の中に加えられていったことが指摘されている。
 ただし、有田の初期色絵が誤って「古九谷」の中に分類されてしまっているからといって、かつて「古九谷」とされた色絵磁器のすべてが肥前の初期色絵であるという結論を導き出すことはできない。とくに、昭和初期の「古九谷ブーム」の際に、明治・大正期に加賀で作られた「古九谷」の写しが少なからず「古九谷」の中に混入したと想像され、その弁別が急務であるにもかかわらず、この作業はいっこうに進展していない。したがって、かつて「古九谷」とされていた作品群を「古九谷様式」と呼び換えて、あたかも一つの様式であるかのように捉え、これを肥前の初期色絵と同義の術語として用いることは適切でない。
「古九谷」概念の形成に絶大な影響を与えたのが、大河内正敏が大正8年(1919)に発表した「古九谷論」である。今日に通じる「古九谷」の概念が整理され固まったのは、早くても昭和初期のことと思われる。「古九谷」は近代の窯業地加賀にとって「必要とされた伝統」だったのである。
 大河内正敏は、染付による丸文や地文と色絵とを組み合わせた祥瑞手(南京手)に関し、まことに大胆な仮説を提示している。後藤才次郎が国禁を犯して中国に渡り、その製法を習得してきたとしているのである。祥瑞手に才次郎手の呼称を与え、後藤才次郎個人の事績としてとくに強調しているのである。
 しかし、祥瑞手の素地が焼かれたのが有田であることは間違いなく、素地移入説も成り立ちがたい。また、祥瑞手は五彩手、青手とは絵付けの手法が決定的に異なる。さらに、祥瑞手の作風は、再興九谷以降の加賀の色絵磁器にほとんど影響を与えていない。そして何よりも、有田最初期の色絵を作品としての「柿右衛門」と同一視し、これと作風が異なるから、後藤才次郎が肥前ではなく直接中国に渡って学んだとする誤ったプロセスを経て導き出された学説である。したがって、祥瑞手を五彩手、青手と同列の「様式」として考えることは不適切であるといえるのではないだろうか。
 一方、有田産の素地に絵付けが施された「古九谷」の存在をどのように考えるか。この問題に答える形で提起されたのが「素地移入説」である。当時すでに遠く離れた窯場に製品を注文できる状況であったから、有田に無文の色絵素地を発注した可能性を完全に排除することは難しい。
 九谷、有田双方の古窯址の調査の進展により編年研究が大きく進んだ現在にあっても、もし有田からの色絵素地移入があったとすれば、「古九谷」の中でどの作品が該当しうるのか、そのような初歩的な問題すらまともに検討されていないのではないだろうか。九谷一号窯で焼成された色絵素地の品質に問題があったため、有田産の色絵素地を九谷に運んで使用したとするのならば、可能性として考えられるのは、有田側の編年でいう青手後期のみであろう。
 古九谷有田説の最大の欠陥は、「古九谷とされてきたものの中に有田の初期色絵がある」という事実から、「かつて古九谷とされてきた色絵はすべて有田産である」という結論を急ぐあまり、「古九谷様式」という概念を持ち出している点にある。この「古九谷様式」は、大河内正敏が提唱したものと大差なく、現代ではとうてい学術用語・概念として使用に堪えるものではない。「古九谷」の枠組み自体を再検討しなければならないのである。
「古九谷」の真実に迫るためには、いまだ根強く生き続けている「古九谷様式」の亡霊から決別することから始めなければならない。あらためて作品に丹念にあたり、確実に産地と制作時期が判明するものから分類してゆき、作品に即してその実像を明らかにしてゆくべきである。