前田利鬯の箱書がある「古九谷」色絵香炉およびその類品について
学会,機関: 東洋陶磁学会2025年度第2回研究会
発表者: 今井 敦(東京国立博物館)
2025年 11月 15日 発表
関連研究員(当館): 今井 敦 
データ更新日2025-11-15
東京国立博物館に最後の大聖寺藩主前田利鬯(1841~1920)が箱書をした色絵香炉が収蔵されている。この香炉は明治44年(1911)に市河三陽(1879~1927)から購入している。三陽は幕末の書家市河米庵(1779~1858)の孫で、米庵は加賀前田家に仕官している。市河家秘蔵の色絵香炉に前田利鬯が極書をしたとするのが最も自然な解釈であろう。
素朴な筆遣いで竹と蝶が描かれており、その作風はいわゆる「古九谷様式」とは異なっている。前田利鬯はまた近年発見された書簡において、「古九谷」の素地は宮本屋窯に近いという見解を示している。赤絵細描の宮本屋窯の作風もまた、今日いうところの「古九谷様式」の作風とはかけ離れているが、その素地は純白ではなく、また染付による裏文様や圏線が一切無い。したがって、大正時代末から昭和時代初期に「古九谷ブーム」が興る以前の、幕末から明治時代にかけて、少なくとも前田家周辺の「古九谷」像は、今日われわれが考える「古九谷様式」よりもかなり限定されたものであった可能性が高い。
この香炉と同趣の絵付けが施された色絵山水図皿が東京国立博物館にあり、昭和6年(1931)に購入している。東京帝室博物館(当時)が購入と寄贈によって「古九谷」の蒐集を本格化させるのが昭和9年(1934)であるので、東京国立博物館所蔵の「古九谷」の中では収蔵の年次が比較的早い。筆遣いは稚拙と言ってもよいほどで、色絵の技術の初期的な様相が見て取れ、構図は文様表現には初期伊万里染付に通じる気分も感じられる。
「古九谷」あるいは「古九谷様式」の問題を考察するためには、大河内正敏(1878~1952)が提唱した「古九谷」の概念、枠組みを自明の前提として議論するのではなく、「古九谷観」「古九谷イメージ」を可能な限り遡って探索する必要があるのではないだろうか。「古九谷」をめぐる「語り」は近代の窯業地である加賀が、殖産興業の文脈の中で、必要とされた伝統、歴史であったのである。
また、大河内は「古九谷」の創始に関して、初期の「古九谷」は万暦五彩の模写であり、後藤才次郎が国禁を犯して中国に渡って技術を学び、最初に作ったのが南京手(才次郎手)という立場を採っているが、後藤才次郎が中国から直接技術を導入したという仮説は、今となっては荒唐無稽と言わなければならないだろう。しかしながら、現在でもわれわれは「古九谷様式」が、中国からの技術導入により初めから完成された形で登場したという先入観に無意識のうちに囚われていないだろうか。肥前有田の最初期の色絵は、技術的に初歩的な特徴を示す一群であると考えるべきではないか。
佐賀県立九州陶磁文化館名誉顧問の大橋康二氏より香炉は肥前有田の長吉谷窯産、皿は猿川窯産とのご教示を賜った。九谷古窯産という意味での「古九谷」ではないとしても、香炉は明治時代の前田家周辺における「古九谷」観を物語る作品として、また皿の方は肥前有田における最初期の色絵の様相、いわゆる「古九谷様式」の出発点を窺い知ることができる作例として重要な位置を占めると言えるだろう。